昭和43年08月02日 朝の御理解



 御理解 第63節
 「一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。」

 一人がおかげを受けたので、千人も万人もおかげを受けるようになるから、良い手本になるような信心、よい手本になるような信心とはどういう信心を云うのであろうか。一人がおかげを受けたのでとこう仰る。一人がおかげを受けたのでということは、どういうおかげを云うておられるのであろうか。ま、ここに皆さんが・・・?みんなそれぞれにおかげを受けておられる。
 ですから皆さんが頂いておられる様なおかげでない事が分かる。ね、皆さんが受けておられるようなおかげではない。ね、それは一人がおかげを受けた為に千人も万人も助かるようなおかげじゃなからなきゃならん。私もあなたこげなおかげ頂きました。ほりゃもう医者に見放なされたときこげんでした。ま、どうもできない問題がこうして助かりました。ね、そういうおかげではない。
 又そういう時にどういう信心したかは知らんけれども、そういう信心が手本に成る様な信心じゃない。一人がおかげを受けたので、ね、一人がおかげを受けたので千人も万人も助かる様なおかげ。そういうおかげでなからなければ、ここでいうおかげとは言えない事になるのですね。千人も万人もと言う事は一つの表現でしょうけれども、沢山その人の信心によって人が助かっていきよるという意味でしょうからね。
 ここでひとつ、本当に千人も万人もその人の、信心によって助かった、助かった人たちの信心をですね、信心をやはり、神習わせて頂かにゃいけん事が分かります。近くは甘木の安武先生なんかの場合なんか、それこそ千人も万人もいうこつじゃありますまい。久留米の初代なんかもそうであります。久留米から、御本部参拝が千人も、あったという時代があるんです。ね、
 ですからそういうやはりおかげを受けられた方達の信心をやはりどこが自分達の信心と違うか、自分たちの頂いておる、おかげを受けておるけれどもどこがそのおかげが違うかといったような事を私は本気で習わせてもらい、また本気でそれを自分のものにしていこうという様な意欲が必要だと思うですね。そこでま、甘木とか久留米とか、ああいう大徳を受けられた先生でなくてもですね。
 無学でそして女性の身で、それでもやっぱり人がどんどん助かったという例が私共一番身近例がありますよね。ここにもあの以前ちょいちょい見えました。芦屋に芦屋教会日吉ツル先生がおられますね、日吉先生のお婆さんになっれる方、あちらはご養子ですからほんとの血の繋がりはない。もう無学でご自分一人で非常なひれいを受けられた。そこで孫養子を迎えられたのがま、ここに見えられる日吉先生のお父さんですね。
 ・・?な学者でもあります。現在の芦屋教会の元を作られた先生です。芦屋から小倉までお参りになるのにその当時の事でございますから、歩いてまいる。そして毎日日参というわけにもいけない。勿論それは自分の身に難病な病気があって、それで助けて頂きたいと云うのが、ま、信心の始まりだったわけ。そこでお話を頂けば頂く程、有り難い神様だし、毎日でも参りたいけれどもそれは許さんから、せめて十日に一辺位はと云うので、まぁ一生懸命に十日に一辺を楽しみに参られた。
 それも毎日その自分の頂かれる飯米自分の頂かれる飯米から、毎日一合ずつ、ね、貯められた。それが一升になった時が丁度十日目になる訳です。ね、さぁ明日はお参りが出来るぞと、それこそ喜び勇んで参られたんですね。そういう様な信心が続いておる、参っておいでられたんだけれども、一向その自分の身の上の病気の上には、おかげがたたなかった。ある時に桂先生の御取次を願われた時に。
 人を助けてわれ助かれという、御教えを頂かれた。人を助けてわれ助かれと。よく申しますね、私がおかげ頂かにゃ、人にも話されんと言う様な事申しますでしょう。そんなこつじゃない。金光様のご信心には、ちゃんと話を聞いて助かる道と、云う様に話というものがある。いわゆるご理解である御教えである。人間が幸せんになっていくにはこういう道を踏まなければ幸せにはなりません。
 私が病気が治ったけんあなたも参りなさいというのではなくてもです、教えを頂いてその教えを人に伝えていく。ね、ま、それからは、一生懸命自分の近所、近辺、自分の村を廻っては難儀な人困った人があると云うと、お導きに廻られたという。そうして、なお十日に一辺のお参りを続けておられた。ある時にお供えのその一升の米を御結界に持ってお参りになられた。桂先生がそのお米を御取次なさる。
 御神前に供えられた時にご伝記には御栽伝とありますね。御栽伝というよりも、だいたい教組御一人ということになっておりますからどういうことか知りませんけれども、御栽伝というのは神様から直々にお声が下がる。ね、そのお米をね、神様、あの桂先生がお取次なさった。そしたらね、「日吉ツル真の信心になった」と仰った、神様が。日吉ツル真の信心になった。
 そして「これからはね千人の神に立てる」と仰った。千人の神に立てる。上に立つ様な氏子に取り立ててやるという意味でしょう。そこでその真の信心というのは、大体そこからでも感じられますよね。自分がこげなおかげ頂いたから、自分がこげな所を助けてもろうたからと云うのではなくても、その自分の身の上にはそのおかげは頂いてはいないけれども、それでもやはりそうした一生懸命の真心を一心をですね。
 自分の頂く飯米、例えばなら一日二合半自分が頂くとしましても、それを一合五尺に減らした。ね、いうならば自分の身を削ってでも神様の方へ向うたというのである。食べ放題、飲み方題、そしてどげんたとえばお供えしたからと言うて、それは真じゃないのかも分からない。お供えの多い少ないじゃない。ものが立派とか立派でないとかじゃない。ね、しかも自分の身にはおかげは受けられなくても「人を助けて我助かれ」と御教を頂かれたら、それを素直に受けて、その事を一生懸命務められた。ね、
そこにです、そこに日吉ツル真の信心になったという神様が真の信心として受けられた。ね、これはですね、お導きと言った様な事は自分が導いて自分が助けるのじゃないですよ。ね、ですから自分の身におかげを受けてとかなければ、人が話を聞かんそげなこつじゃないです。只神様がそう云って下さったからそう「人を助けて我助かれとおっしゃるから、人が助かる事の為に一生懸命務めた。
 そしてこれが助かっても助からなくても、自分の話を聞いてくれても聞いてくれなくても、その務めたという事によって自分が助かっていく。そしてまたその助けて下さるというのはこりゃもう神様が助けて下さる。あの人は自分のおかげも受けきらんのってから人にばっかり話してからというふうには、相手が受けた者もあろうけれども、ほんにこのおばあさんの云わっしゃるとおりたいと云うて、おかげを受けて助かったものが沢山できてきたという事なんである。
 だからこの辺の所はね、先ず自分がおかげを受けなければと言った様な自分がおかげを見せなければ人は導かれんと言う事はない。その為にここで現在合楽で日々こうしておかげ頂いています様に、本当にあの今迄聞いた事もなかったお話、天地にはこういう様な道理がある、こういう様な法則がある、この法則を破って人間が幸せになる筈はないという様な、例えばお話をするなら、誰でも出来る事だとこう思うのです。ね、
 私は最近信心始めたが、話を聞けば聞く程に、なる程なる程と思う事ばっかり、どうの、あなたも一辺この話を聞いて見てお参りしてみてはどうかというて、話が出来ん筈はないて。「人を助けて我助かれ」それから熱心に段々信心を続けられ、御自分の周囲にお講という当時はお寄りとも言やぁ講社というた、ね。いわゆる芦屋講社が出けた。ね、日吉先生の周囲にですね。
 日吉先生のところに集まって、大祓やら天津祝詞やらを覚えさせて貰う稽古する。そして、日吉先生の小倉で受けてこられる話を聞く事を楽しみに集まってくる人達が、集まってきた。ね、まだ先生じゃない。ね、そして皆のそのいろんな難儀な問題を自分が受け持っていっては小倉へ持っていって、お取次をなさる。ですから桂先生が、これは道の教師にでも取り立てようという事になったのでしょうね。
 それから小倉に修行に入られる事になった。修行中にある時、桂先生が大事にしておられる素焼きの茶器があった。いわゆるま急須のようなもんでしょう。それをまだげんに小倉教会に宝物として取ってある。それをそのちょっと手をすべらしてから取り落とされたんですね。ところがそれはもう真二つに割れた。そりゃ私ども桂先生は存じ上げませんけれどもお話に残っておるのを聞いただけでも大変に厳しい方であった。
  もう厳しい方というよりも大変やかましい方であった。さぁもうそれこそびっくりされたんですね、桂先生が大事にされている茶器を割られたんですから。そのままその二つにわれた茶器を表に出てですね、天地の、大地に座ってその泥をつけられた。昔は信者さんがたは怪我すると自分の体にその、ね、天地の親神様のいわば五体を自分の五体にねじくるというごた意味でしょう。
 私がつのばば達も私どんがこの膝やらすりむくとですね、すぐあんどろを金光様金光様ちゅうてから塗ってくれました。これは医学的にもですね、そういう傷を癒すような働きがあるそうですね。泥の中には。そういうなんですからとにかくもうびっくりされてから一心ですね。そのどろを付けては、そこの割れ目に付けてですね、生神金光大神様ち願われた。それがですね、付いたそうです。
 もう大変に、桂先生が喜ばれたと言う事ですね。これはもう桂の家のひとつの宝として、とっておられる。人間の一心というものが天地に通う時です、どの様な事でも出来ることが分かります。ですからそういう様にですね、一心が非常に立つ方であった、いわゆる、祈念力が強かったと言う事が言えますよね。してみると、今この一時の御祈念なんかで、祈念力を養うと言う事が、いかに大事かと言う事が分かります。
 皆さん今日は私がね、一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けられる様になる、というその話をしてるのですよ。今日は日吉ツル先生の話じゃないです。この話はいつも私がよくしました昔。けども今日はこのご理解六十三節からですね、はあこういう信心すればこういう信心になればね、人の手本に成る様な信心と言う事になるんだなと言う事を、ま日吉ツル先生のご信心から頂こうとしておるわけなんですからね。
 ですから自分の信心と対照して、ははぁ私にはそんな一心じゃない。私にはそげな祈念力がない。ね、私にはそげな身を削るようないわばお供えは出けておらん。その十日に一辺でもそれこそ芦屋から小倉まで歩いて参るとが楽しみで、そげな楽しみの信心じゃない。まあ、どれを見てもどれをとっても自分からかけ離れておるものを感じるなら、そこんところを改めた信心になっていかにゃいかんです。ね、
 教会を持たれるようになってどんどんごひれいが輝くようになった、人が助かるようになった。ある夏のご大祭、今頃だったでしょうね。桂先生がご祭主を務められますから芦屋のほうへお出でられた。ところがもうその日は朝から土砂降りである。もう桂先生もうそれこそご自分も濡れながら、足を汚してその芦屋に着かれた。そして奥の間に入られて、もうそれこそ目から火が出るように日吉先生を呼んで怒られた。
 お前の信心が詰まらんからご大祭に雨が降るんじゃと言う訳なんですね、お前はよかろうけれども是だけ沢山の信者がしるしい思いをして参ってこなければならんじゃないか。同時にお前の師匠である所の私がね、この雨の中にこげなしるしい思いをしてこねばならん、その事だけでもお前の真心が足りんからこう言う事じゃ。是から大祭に雨が降る様な事があったらもうきかんぞというてその桂先生がおしかりになったそうですね。
 以来芦屋の教会の大祭に雨が降った事はないと言われとります。私はその素直におしかりを受けてもう、そげんあなた天地のことじゃけんあなた、そげなわけにはいかん、と言う様なもんじゃなくてですね、師匠が言われる事をですね、素直にしかもそれがおしかりであってもそれを受けておられる所がね、それに所謂一心の立つ方であり、祈念力の強い方であります。ね、言われてみれば言われてみる程その通り。
 もうそのことのお詫びをなさってこれからはこういうことのない様に神様にお縋りさせて貰いますと言うて、おかげを頂かれ以来芦屋の御大祭の時には雨の降る事はないと言う様に言うなら天地が芦屋の教会のために自由になって下さる様なおかげが頂かれる様になられたと言う事だそうです。そういうですね、そういう信心が骨子になる、それだけじゃありません。ね、
 そういう信心がその人の信心のいわば筋金なんだ。ね、それだけの事じゃありますまいけれども、そういう信心が日吉先生の信心のいわば骨子になって、あのごひれいを受けられた。成程文字どうり千人も万人ものものが助かる様になられた。一人がおかげを受けた為に、千人も万人もおかげを受ける様になる。一人その手本に成る様な信心をせよと、自分も大概、人の手本になる様な信心しよるごたあるけれども、ね、
 はぁ自分の信心は、まだまだここで現れてくる所の、おかげじゃない事をひとつ分からにゃいかん。一人がおかげを受けた自分がおかげを受けたというおかげではなくて、ね、桂先生が、じゃないこの日吉先生が、お受けになられた様なおかげをもって、私はこの御理解六十三節の、に現れておるおかげというのは、そういう意味だとこう思うのです。よい手本になる様な信心、先ず信心にはもう喜びと楽しみを持っておじろ前におひき寄せ頂けるようなものが大事。
 はぁいつまで参らんならんじゃろうかと、参るとがしるしいごたあるこっちやいけないことが分かります。同時にです、例えばそのお初穂ひとつでも、十円のお賽銭でも、ほんとに真心がこもっておらなければいけないということである。ちゃんとこうやって立ってからおさい銭を投げ込むごたあるこっで、おかげを頂ける筈がなか。お賽銭なんてんいちいち清めて洗うてくる人がある。
 手洗いを洗う時にちゃんと自分のね、お供えする十円硬貨、その当時は一銭硬貨、銅貨でしょう。それをきれいに洗うてお供えしたという人がある。ね。お初穂でもそうである。はぁ、もうほんな百円札のこうやってからもうその握りしめたごたあるしわだらけんとば、もうそのまましわも延ばさずにお供えする人がある。そげなことじゃいかんということが分かる。しかもね。
 自分の好きなもののひとつぐらい絶ってからでも、それをお供えになると言う様な所が日吉先生の場合あるわけですね。好きなものじゃないもう自分の主食である、例えば自分の食べ物から一合引くだけでもうやっぱ大修行だとこう思うですね。自分たちがお供えさせて頂いておるお供えの中には、ね、様々、そういう一つの思いというものが込められておるかどうか。
 そこに日吉ツル、真の信者になったというようなことになってくるのです。そして素直に人を助けてと言われたら・・?人の助かることのためにもう道の遠い近いは言わない。あそこに難儀な人があるといゃそこにわざわざ足を運んで道の信心の有難いことを話される。まあそれから私どもの信心を対象してみてですね。
 は一人がおかげを受けたというおかげはどういうおかげか。よい手本になる様なと仰る、良い手本になる様な信心とはどう言う様な事か、ね、それは千人も万人ものものが助かるところのです、様相をもった信心でなからなければならないということである。私どものそういう信心にです、切り替えておかげをこうむっていかにゃいけんと思いますね。
   どうぞ。